2015年12月30日

原風景

私が生まれて初めて北海道を訪れたのは14才の夏休みであった。このときは自衛隊の東千歳演習場の中にある旧日本軍の滑走路跡周辺で一週間程テントを張って遊んでいて(何をしているんだか…)演習場の外を出歩かなかった。そのため、牛には出会えなかったし地平線も雄大な山々も見た訳でも無いのだが、当時の演習場は原生林の中にあり、見渡す限りの青空、昼間でも薄暗い森、端の見えないこれまで見たことも無いような広大な大地が広がっていたのであった。これらは、中学生ごときが知っている世界や常識というものをはるかに凌駕するものであり、北海道の魅力に目覚めてしまったのである。

たぶん、この辺りで遊んでた

それから数年間、ひょいと訪れた北海道がこんな素敵な所であれば、日本中探せば他にも驚くような世界が広がっていると何の根拠も無くそう信じていた。大学に入ると親元から離れた生活になり、何の足枷も無くなった私はここぞとばかりに糸の切れた凧のようにあっちへフラフラこっちへフラフラと日本中を旅し、各地の風景を見たり人と出会ったりし、自分がこれまでどれだけ狭い範囲の中だけで生きていたかを思い知らされたのであった。

翌年、年齢は一つ増えて19才になったものの学年は再び1年生という、学業に勤しまなかった者への社会の厳しさも同時に思い知らされたのであった。

でもまあ1年生を2回も出来るという幸運に恵まれ、大学の事を何も知らないくせに同級生から先輩と呼ばれ、サークルで厳しい練習に明け暮れていたある日、サークルの先輩が「北海道の山に登り放題のバイトがあるぞ」と何やら意味深げな顔で教えてくれた。一抹の不安はあったものの、バイトを募集していたのが当時の環境庁であったこともあり二つ返事でバイトをすることになった。北海道へは1年間位滞在したかったが、1年生をこれ以上するのも不毛なので、夏休みよりちょっとだけ長い2ヵ月だけ行くことにしたのであった。

7月初旬に本州から電車を乗り継ぎ、今は無き青函連絡船に乗り、函館駅へ到着した時は夜明け頃であった。曲がった長大なホームには毛ガニ弁当が売られていて、これを見た瞬間に北海道へ上陸したんだという実感が沸いてきたのであった。ここから特急列車に乗り換えたのだが、本州の特急列車を利用し北海道の特急列車に乗り継げば特急料金が半額になる制度があるらしいことを知ったのが列車の中であったのでこの特例を利用することが出来ず、物事を知らないというのは損であるとここでも社会の厳しさを思い知らされたのであった。

旭川から普通列車に乗り換えたのだが、線路は単線、列車は2両編成、車窓から見える景色は、牛と緑と大地ばかりであった。私の生まれ育った所では、線路は複線で高架か地下、電車は8~10両編成、車窓から見える景色はビルか地下トンネルの壁面、ホームにあふれる人混みであり、大違いである。ここは、これまで見てきた日本の景色とは大きく異なり、外国にはまだ行ったことも無いくせに異国情緒を感じていた。昼過ぎに上川駅に到着し、待合室で環境庁の職員に無事出会うことが出来たのだが、ここで驚愕の事実を知らされる。このバイトは交通費が支給されないらしい。当時、本州から北海道までの交通費というのは恐ろしく高額であり、バイト代の5日分程は交通費に消えてしまったのである。雇用主がたとえ国家であっても、労働条件は事前にしっかり確認しないと痛い目に合うと思い知らされたのであった。

おまけに、駅から登山口までの車中で、食事代も不支給、休日無しの週7日労働、さらにバイト代は最終日にまとめて支給という劣悪バイトであることを知らされるが、もう思い知らされるものが多過ぎて頭の中はパンク状態であった。さらに追い討ちをかけるように、バイト代が当時の平均的な金額の半分であることを知らされ、往復の交通費と2ヵ月分の食費だけでバイト代を軽く上回ることに気が付いた時には、環境庁の立派な車は大雪山黒岳登山口のある層雲峡へ到着していた。

7月だと言うのに気温は10数度、事務所の中ではストーブが焚かれている。 バイトなのか無料奉仕なのか、はたまた強制労働なのか知らないけれど、これで夏休みの蓄財計画は見事に霧散したのであった。その環境庁も、私を安いバイト代で長期間こき使って財力を高め、今や環境省に昇格である。いったい誰のお陰で…。

ここでの仕事は多岐に渡り、国営キャンプ場のシーズン前の草刈り、シーズン中は週1回のキャンプ場の管理人、週6日は環境庁の腕章をつけてグリーンパトロールという名前で大雪山の山々に登りゴミを拾う。さらに物品の運搬という良く分からないものもあり、白雲岳の避難小屋に仕切り壁を作る時は、182cm×91cmの板数枚を麓から山頂近くの小屋まで荷揚げをさせられた。荷物が巨大な板なので後ろから見ると人間の乗った凧に見える。そして本当に風が吹くと飛んで行きそうになったのである。またあるときは登山道に転落防止柵を作るというので、大量の杭を運ばされたこともあった。背中には杭、頭の中は悔い、昼になったら昼飯を食い、僕は一体こんな所で何をしているんだろうと何度も考え込んでいた。

人は何事にも慣れるもので、半月程経った頃には雄大な大雪山の風景にすっかり魅了されており、毎日こんな素敵な場所へ来られるし約束通り山に登り放題である。僕はなんて幸せな奴なんだと、環境庁の思うツボにはまって行く私であった。

いくら若くて体力があるとは言っても無休の労働が40日も経過する頃には過労気味になって来て、ある日倒れてしまったのである。環境庁は慌てて(慌てるくらいなら休みをくれんかい!)私を車に乗せ、麓の町の病院まで連れて行ってくれた。未舗装で曲がりくねった国道を峠を越えて延々走り、山道もそろそろ終わりかけた頃、目の前に広がったのは地平線が見えそうな大地、遥か先まで続く一直線の道路、広大な牧草地、初めて見るサイロ、ごく稀にしか現れない人家、信号が全く無い…。もうそれは日本とは思えないような景色であった。

病院はそんな風景に囲まれた町の中にあり、腕に点滴を受けながらも2階の窓から見える雄大な景色に魅了されていた。そして、いつかここに住みたい!と心に誓ったのである。結局、この病院までの道中や窓から見えた景色が、私にとっての北海道の原風景なのである。

その後、アメリカに住んだり、地球を一周したり、砂漠の中を歩いたり、全てが凍りつくー35℃から灼熱の+55℃まで体験したりしながら色々な所を見て、39ヵ国を回ってみた結果、やはり北海道、それも道東地域が世界で一番素晴らしい居住環境であるという結論を得たのである。

そして、いつかは、いつかはと思いながらなかなか実現しなかったが、それから数十年後になってしまったものの、今こうしてあの時に見た同じ景色を見ながらこのブログを書いているのである。

我が家の窓からの景色