長い廊下を歩き湯殿へ向かう。ドアを開け脱衣所へ入ると、そこには脱衣カゴが床に放り出されたように置かれたままであった。「ああ、マナーの悪い客が来ていたんだな」と半ば呆れ顔で浴室へ向かうと、中は湯気で霞んではいるが何だか音がして人のいる気配がする。音のする方を見てみると、シャワーが勢い良く出放しのまま放置されていただけで誰もいなかった。マナーが悪いにも程があるよな、とやや憤慨気味の私であったが、脱衣所には服がなかったので誰かがシャワーを出したまま帰って行ったということだろう。
いや、流石にそこまでマナーの悪い奴はいないだろうと、ふとシャワーの下を見ると、そこにはシャンプーやら石鹸などが入った明らかに個人の所有物のお風呂セットが置かれたままである。ひょっとして露天風呂へでも入っているのかとも思ったが、脱衣所に服が無いということは、素裸のまま温泉に来たのか?それとも服を来たまま露天風呂に入っているのか?まあ、どっちに転んでも嫌な思いしかしないな…。
嫌々ながらも露天風呂へ通じるドアを開け、薄暗い石の階段を下りて行く。ぶら下がっている照明がLEDの裸電球という新しいんだか古いんだか分からない灯りを頼りに湯舟への階段を登って行く。裸で歩いて来たおっさんがいるのか?服を着たまま入浴している奴がいるのか?と思っていたけれど、大きな露天風呂には誰も居なかったのである。
周囲を見渡すと、湯舟の縁に洗面器が無造作に置かれており、中に何か赤い液体が入っているのが見えた。血?人間の血なのか?もう私の頭の中では、サスペンスドラマの主題歌が凄い勢いで大きな音を奏でている。先週から暇潰しに再放送のドラマを10本連続で見たのがいけなかったのかも知れない。そのうち3本は温泉で殺されるシナリオであった。
ははは!まさか現実にそんなことが起こるはずないじゃないか、ははは。と、相変わらず「ちゃちゃちゃちゃーん♪パーパーパ、パーン♪」とドラマのテーマ曲が頭の中でオーケストラ状態のまま、近付いてもう一度その洗面器を見てみた。
ぎゃー!本物の血じゃないか!
なぜ本物の血だと断定出来たのかと言えば、そのすぐ横に血で染まったガーゼが放置されており、いくつかの鮮血色の凝血が付着しており、そのひとつは凝固しきっていない状態でガーゼの端から周辺へ流れていたのである。辺りの暗さに目が慣れて来たので、さらにその周囲の血痕がいくつも見えたのであった。
ここで何が起こったんだろう?頭をドラマモードから冷静モードに切替え、その血が散乱する状況を考え始めたのであった。
血は鮮血色、つまり凝固して黒ずんでいない。温泉の湯気のせいで凝固が遅くなっている可能性もあるが、どちらにしろそれ程時間は経過していないはずだ。傷から出た血なのか?傷にしては出血量が多くないのに凝血塊があるのは不自然だ。じゃあ、吐血性のものなのか?褐色凝血塊だと胃酸の影響を受けた吐血だが、大量出血だと鮮血色だけどこれは大量じゃないしな…。下血の場合だと、血以外にも何かが出ていることがある(まぁ、通常はウンコだな)。よくわからん。
ガーゼをもう一度良く見ると、20cmx15cm程度の大きさに畳まれており、濡れた状態で血が付着している。さらにガーゼの裏には透明のテープが貼られているのである。風呂で突然出血すれば、普通はタオルか何かで血を拭くであろう。なぜガーゼなんだろう?透明のテープは絆創膏なのか?すると、風呂の中で救急セットを用いて応急処置をしたのか?そこまで用意周到であれば、後片付けくらいして行くよな…。でも風呂の中でガーゼと絆創膏がある理由がわからん。
ひょっとして、入浴客同士が喧嘩でもして誰かが怪我をしたのか?もしそうであっても、手当てだけして血で汚れた現状を放置するのはやはり不自然だ。治療道具を持参でもして来ない限り、温泉宿の人に救急道具を借りたはずだから、宿の人がそのあとすぐに掃除はするであろう。第一、私が宿に着いた時点で何らかの説明があったはずだ。ますます分からない…。
いや、実は怪我をさせた人間がとても悪い奴で、宿の人には「大した事はありませんでしたよ」と言いながら、救急道具を返却し自分だけ帰路についたのでは無いのか?だから一人分のお風呂セットが浴室に放置されたままなんだろうか?だからシャワーが出し放しだったんだろうか?
それなら怪我をした人はどこへ行ったのか?広い露天風呂の浴槽の中に沈んでいるんだろうかと思って手と足で湯舟の底を探ったが何も無い。数メートル下の川に落されているんだろうか?と、下を見ると、暗くて良く分からないが「く」の字に曲がった白い大きなものが川の真中辺りに見えたのであった。
つづく…。
いや、ここでやめると遠くの原野から苦情が来そうなので、やっぱり一気に書いてしまおう。
川の中の白いものは、風呂の照明が暗く光が届かないので良く見えない。何度も目を見開いて確かめようとしたんだが、やはり分からないままである。はたして死体なのか?流木か何かなのか?
良く見えないものは仕方が無い、他の場所も探してみるかと思いながら少し離れた所にある打たせ湯の場所を覗き込んだり階段の付近を見たりしていた。私の行動は、もうその辺に死体が転がっていると確信しているかのようだ…。
結局、階段の登り口の辺りに血痕を発見し、それを追って行くと内湯の方まで続いていたのであった。つまり、少なくとも出血した人は、何らかの方法で露天風呂から内湯へ戻ったということだけは判明したのである。ということは、出血現場から血を流しながら露天風呂の湯舟の中を横切り、階段を登って内湯を通り、脱衣所まで戻って服を着て帰ったということなんだろう。
そうすると、今私が気持良く浸かっていたお湯は血入り?ぎゃー、気持悪いじゃないか。服を着たまま入浴しているおっさんがいるかも知れないとまでは思ったが、まさか血の混入した湯があるとは思わなかった。早々に露天風呂を後にし、内湯でしっかり体を洗い流したのは言うまでも無い。
普段なら1時間以上ゆっくり入っているのだが、今日は入浴5分、現場の推理15分、死体捜索5分、血痕追跡5分の合計30分で出て来たのであった。全然温泉気分じゃない。
で、結局この騒動の真相を宿の人から聞いたところによると、
- 怪我をして間も無いおっさんが風呂に来た
- 傷口にはガーゼを貼って止血していた
- 足場の良くない暗い露天風呂へ入ろうとした
- 露天風呂の縁で転んで更に怪我をした
- 出血がひどかったので、元の傷口のテープを剥して止血しようとした
- 止血出来ず慌てて風呂から出た
まず、上記1番の時点で既に大間違いである。普通の人間であればそんな状態で風呂に入るのは躊躇するし、誰かに制止されるはずである。まあ一歩譲って風呂に入るところまで良いとしても、決して3番の行動は取らないはずだ。したがって、4番の結果は起こるべくして起こったということであろう。自業自得。
その後の信じられない行動は5番であろう。このせいで、元の傷口と新しい傷口の両方から出血し、辺り一面血だらけにしてしまった。本人はよほど慌てたんだろう、シャワーは出し放し、お風呂セットも放置、脱衣所にサンダルまで脱ぎ放しにして帰って行ったようだ。
まあ死体が転がっていなくて良かった良かった。暗闇の露天風呂でひとり血を吹き出しながら大慌てで逃げ去るおっさんの姿を想像して、可哀想やらおかしいやら、複雑な心境で帰路に着いた私であった。